映画『偶然と想像』第2話「扉は開けたままで」について

偶然と想像 第2話 扉は開けたままで

 

濱口竜介監督の3本からなる短編集『偶然と想像』はすべて、偶然性とかつて深くつながった、あるいはこれから深くつながれるであろう関係性への希望を題材としている。

 

さて、偶然の一つの説明としては、因果と因果の交差点といえる。人間社会の水準に落とし込めば、テレオノミー(目的論的関連)とテレオノミーor因果現象の交差点である。例えば、スーパーの特売に行くために、外に出た瞬間、雨に見舞われるというのは、テレオノミー×因果現象の交差である。スーパーの特売に行くために外出したAさんと映画を観賞するために映画館へ向けて外出したBさんが、街でたまたま邂逅するということは、テレオノミー×テレオノミーの交差である。2つ以上の事象が交差することについて、もはや因果的に説明することはできない。それが偶然性だ。そして、合理性では説明しきれない偶然性に人は奇跡を感じずにはいられない。

 

第2話「扉は開けたままで」は圧倒的に良いモチーフを有している。一番観客の笑いを誘っていたのが第2話であるため、多くの人が、第2話が一番面白かったというだろうが、そうしたユーモア要素とは関係なしに、この作品は優れている。ここで表現される「社会的な評価の外側で生きることの困難性」が観客にどうすることもできないいらだちやもどかしさを感じさせるからだ。

 作家で大学教授の瀬川に単位を認められず、内定取り消しとなった佐々木は同級生でセフレの人妻、奈緒に瀬川を色仕掛けでハメようと持ち掛ける。だが、奈緒にもともと大学で世話になった瀬川に好意的でハメる気などなく、芥川賞を受賞した作品の官能的な項に興奮と共鳴をおぼえる。

 瀬川は奈緒のことをよく質問をくれる目立った学生として覚えていた。年齢とは関係なしに。奈緒が小説の官能的な項を朗読しはじめる。奈緒は性的な誘惑に弱い自分を瀬川に告白する。だが、瀬川はそれを肯定する。人より性欲が強い、自制心が弱い、そうかもしれないけれど、それがいい、あなたは強いと。以下、台詞は覚え書き+ニュアンス。

 

瀬川:言語化以前の未決定にとどまっているところがいい、だれにバカにされてもあなたは自分の価値を抱きしめなければならない、それをひとりで抱えるのは難しいけれど、耐えて、いつか励まし合える仲間に出会えるから。

 

奈緒:でも、先生は社会から認められた存在です、芥川賞をとれたからそう言えるのでは?

 

瀬川:そうかもしれません、でもできれば賞をとる前にあなたとこういう話をしたかった。

 

奈緒:わたしももっと早く先生の小説を読んでいればよかった。

 

 言語(言語プログラム)とは社会のことだ(ラカン)。社会を生き抜くために強制的に外から与えられた型にすぎない。瀬川が言うように、奈緒は社会からずれた存在だ。日本では珍しく主婦として大学に通う、不倫している、等。だが、自分自身を社会から見てダメな存在だと知っている。だからどっちつかずの状態にいる。瀬川も社会からずれた存在だ。だから奈緒を肯定する。瀬川にとっては、自身が大学教授であることも芥川賞を受賞したこともどうでもいいだろう。瀬川の研究室の扉は常に外に向かって開かれている。社会的なものさしの外側で通じうる二人が、瀬川の芥川賞受賞という社会的ものさしをきっかけに再開するのがなんとも皮肉である。そしてそうした関係は社会によって簡単に崩壊させられうる。奈緒が録音をセガワならぬ大学事務のサガワに送ってしまったことによって、二人の関係は社会的に消去された。

社会的ものさしを度外視してつながれる者同士が社会的ものさしをきっかけにしなければ出会うことができないという問題、そうした関係は絶えず社会的な力によって簡単に壊れうること。そうしたモチーフを感じる。

5年後、偶然バスで佐々木と再会した奈緒はもう5年前のどっちつかずの奈緒ではない。いつか佐々木の編集で出版された瀬川の小説を自分が読むことに希望を見出す。奈緒はいずれ出会うであろう励まし合える存在のために自分の価値を抱きしめて生きていく。