映画『愛なのに』 現代における恋愛の問題点が凝縮されている

『愛なのに』 現代における恋愛のほぼすべての問題点が出尽くしている

 

叶わなくても多田浩司に告白し続ける矢野岬。

「多田さんにとっての私はたくさんいるかもしれないけど、」

「私にとっての多田さんは多田さんただひとりです。」

 

盲心的な恋をしたとき、相手が世界そのものに思えてくる。世界の他の何よりもその人が魅力的に見えるから。そのとき、その人は自分にとって、代えの利かないかけがえのない唯一ひとりの存在として立ち現れる。しかし、相手にとっての自分は代替可能な有象無象にすぎない。この非対称性が片思いの宿命である。

 

だからこそ、岬が浩司に対して怒るシーンがある。岬からクラスの男子に告白されたことを聞いて幸せになってほしいと言う浩司。

「幸せになってほしいじゃんか、それは」

「え?誰に?わたしに?」

「そうよ」

「え?なんで?」

「何でって、それは、だって、そうでしょ。みんな幸せになったほうがいいじゃんか」

「信じらんない」

「そんなこと好きな人から言われたらムカつきません?悲しくなりません?」

 

浩司にとって岬はみんなのうちの一人。岬の幸せは浩司にとって他人事。浩司の発言は自分を好いてくれる人に一番言ってはいけない言葉だ。

 

どうでもいい人には告白されて、フッても気まずくならない。どうでもよくないから気まずい。かつて浩司の告白をフッた一花は浩司を結婚式に気まずいから呼ばない。それを聞いた婚約相手の亮介は一花に嫉妬する。「おーい、めっちゃ意識してんじゃん」。

好きな人を振り向かせようとするとき、無関心が一番入ってはけないゾーンだとよく聞く。なんならその人に嫌われていたほうがまだマシだという。それはあながち間違いではない。[好き/嫌い]は言語的に両極端に位置するセットだ。ある人間を嫌いと意識すれば、自然と[好き/嫌い]の言語地平に引きずり込まれる。ある時、嫌いと思っていた人間を好きになることがありうる。だが、無関心ならそもそも[好き/嫌い]という言語コードの地平が現出しない。だからノーチャンス。好きの本当の反対は無関心と呼ばれるゆえんだ。

だが注意すべきは言語的に無関心だと意識した瞬間に今度は[関心/無関心]の地平に引きずり込まれることだ。だから自分に対して無関心だということさえわかっていない真の無関心こそ、振り向かせたい人を一番入れてはいけないゾーンだ。

さて、この物語の主人公は浩司でも岬でもなく、佐伯一花だ。一花が婚約相手である亮介の不倫をきっかけに、婚約相手以外の人間(浩司)と関係をもち、罪悪感に打ちひしがれると思いきや、享楽に目覚めて解放される。

 近代家父長制家族はモノガミー的なモラルを形成し、それを脅かす婚姻外的な性関係を反倫理的なものとして感覚させてきた(見田)。それは社会的なフィクションにすぎず、ある意味で抑圧である。だからこそ、反倫理性に享楽が宿る(ラカン)。

 反倫理性に抵触したとき、人は罪悪感に打ちひしがれるのではない。忘れていた享楽に目覚め、あるべき姿にもどる。モノガミー的モラルをノンフィクションだと社会に錯覚させられてきた一花は浩司と関係を持って以降、「だれにも言えない感情」が生まれてしまう。そして、ふたたび浩司とセックスする。「たまに会って、たまに寝たい」。これが自然なのかもしれない。

 こうした真理は一花を通じて浩司にも継承される。

「この真っ白な手紙を最後にすると矢野さんは言ったけれど、もしよかったら気が向いた時でいいので手紙を書いてくれませんか。結婚してください、と書かれた手紙を」。さきの一花が浩司にはなった台詞「たまに会って、たまに寝たい」と同じ構図だ。

 岬の両親が「気持ち悪い」と浩司を問い詰めに来たとき、「愛を否定するな!」と激昂し、父親を殴る。社会的常識という虚構で、愛を抑圧するなと。

 

 だが、この継承線の原点にいるのは他でもない、浩司の不倫相手である、ウェディングプランナー熊本美樹である。彼女は最初からすべてを知っている。感情的になるシーンは一つもなく、常に平常心を保っている。その証拠に目の前に不倫相手の婚約者(一花)がいるのに、まったく動揺することもなく卒なく仕事をこなす。風俗で働いた経験があることも重要な要素であろうが。

「結婚っていうのは、相手と自分のためじゃなくて、相手の家族と自分の家族のためにするものなんですよ。あとは生まれてくる子供たちのために」

 

そして、17歳の岬も、限りなく熊本美樹に近い存在だ。直接接触するシーンはまったくないが二人はきっと似ている。