『Coda あいのうた』 ろう者を主題にしたのなら決定的問題がある

 

 

 『Coda あいのうた』はろう者の家族と健常者の娘の関係を主題とした点で非常に稀有で演出も素晴らしい作品だった。展開こそ簡単に読めるものの、演出が上手いので観客は飽きることなく楽しめる。しかし、全体的に素晴らしいがゆえに最後の結末にはがっかりした。  

障害をもった人を取りあげる場合、健常者と一緒になら生きていけるというモチーフを描くことが常に重要だ。それが現実であり、その現実ふまえない映画は楽観的過ぎて現実を軽んじている。軽度の障害者はともかく、重度の障害者は介助を行う健常者がいなければ社会で生きていくことができない。だからこそ、娘以外ろう者で、漁業を営む家族は手話を扱うルビーなくては生きていけないという描写が現実をこれ以上なく完璧に表現していた。映画も大半はそのことをめぐる問題を中心にずっと進んでいく。だが、終盤ルビーが音大に合格して以降、残された家族はどう生きていくことになるのかほとんど描かれない。ろう者の協同組合?のようなところでうまくやっているようなシーンが雑に流れるだけだ。ルビーの親友(少し手話を使おうとしていた)が兄と結ばれることでルビーの代わりとなるのかと思いきやそうした描写もない。これでは、障害をもった人がこの社会をどう生きていくのかという問題に監督はまったく答えていないことになる。現実を誤魔化している。確かに障害者の下に生まれた健常児(ルビー)を健常者の社会で好きなようにさせたいという親の苦悩・子を応援する気持ちは現実的だ。だが、家族のほうはどうなるのか、そこを含めて描かないのは逃げだ。ルビーのような存在がなければろうの家族は生きていけない。ルビーが家族を離れるなら、その代替となる存在が描かれるべきだ。あるいは、ルビーが歌を学ぶにせよ、家族と離れない結末にするべきだった。監督はろう者を扱っているのにもかかわらず、障害者の現実をわかっていない。マジョリティに迎合する失礼な映画だと思った。そこを突き詰めずに、ハッピーエンドを迎える演出に憤りを感じざるをえない。

アピチャッポン『MEMORIA』 これは決してSF作品ではない。

アピチャッポン・ウィーラセタクンMEMORIA

衝撃の謎の宇宙船は隠喩だ

 

 アピチャッポン監督の『MEMORIA』で最大の衝撃といえば、ラスト、森の中から謎の宇宙船が現れ、主人公ジェシカを襲っていた爆裂音の正体であったことが明かされたことだとだれもが思うだろう。だが、きっとそんなことはまったく重要でない。爆裂音の正体は宇宙船であったなどという答え合わせを監督が伝えたいわけでは毛頭ない。もちろん、この映画はSF作品ではない。

 最も重要なシーンは、宇宙船が登場する前の終盤、川辺でジェシカがエルナンという男に出会うところからだ。それまではほぼ前座といっていいのかもしれない。

 エルナンは自然とともに生きる。森から離れることを嫌う。記憶を保つために経験することを嫌う。人間と自然とが透明に交流する世界から疎外されないために。石というアクターが昔の記憶をおしえてくれる。記憶の主体が人間であるかはどうでもいいことだ。自然物はすべてを見ている。ただし、石のこえを聞くことができる者(エルナン)は、石とともに生きてきた者のみである。文明人(ジェシカを含めた都市人)はそうした世界から疎外されている。ジェシカは石のこえを聞くことができない。その記憶を読み取ることができない。ジェシカは夢を見る。エルナンは夢を見ない。エルナンには夢もくそもない。寝ることは死であり、ただ止まることである。

 ただし、そうした世界から疎外されているからこそ、ジェシカに爆裂音が太古の記憶として回帰する。ジェシカは確かにそのとき、森のこえをきいている。ジェシカの妹も夢で犬のこえをきく。だが、すぐ忘れてしまう。文明人の典型だ。ジェシカだけはそうした未知の記憶の片鱗を「アンテナ」として受信する。そこに「記憶のハードディスク」ことエルナンが媒介することでジェシカは太古の記憶を読み取ることができるようになるのである。ジェシカは自分を悩ましていた爆裂音を今はもっと聞いていたいという。それはきっと観客が心地よいと感じる川のせせらぎや雨の音のように。そのとき、森林の中から謎の宇宙船が現れ、あの爆裂音とともにどこかへ飛び去って行く。ジェシカがあるべき真理に到達し、疎外から解放されたことの隠喩だ。

映画『偶然と想像』第2話「扉は開けたままで」について

偶然と想像 第2話 扉は開けたままで

 

濱口竜介監督の3本からなる短編集『偶然と想像』はすべて、偶然性とかつて深くつながった、あるいはこれから深くつながれるであろう関係性への希望を題材としている。

 

さて、偶然の一つの説明としては、因果と因果の交差点といえる。人間社会の水準に落とし込めば、テレオノミー(目的論的関連)とテレオノミーor因果現象の交差点である。例えば、スーパーの特売に行くために、外に出た瞬間、雨に見舞われるというのは、テレオノミー×因果現象の交差である。スーパーの特売に行くために外出したAさんと映画を観賞するために映画館へ向けて外出したBさんが、街でたまたま邂逅するということは、テレオノミー×テレオノミーの交差である。2つ以上の事象が交差することについて、もはや因果的に説明することはできない。それが偶然性だ。そして、合理性では説明しきれない偶然性に人は奇跡を感じずにはいられない。

 

第2話「扉は開けたままで」は圧倒的に良いモチーフを有している。一番観客の笑いを誘っていたのが第2話であるため、多くの人が、第2話が一番面白かったというだろうが、そうしたユーモア要素とは関係なしに、この作品は優れている。ここで表現される「社会的な評価の外側で生きることの困難性」が観客にどうすることもできないいらだちやもどかしさを感じさせるからだ。

 作家で大学教授の瀬川に単位を認められず、内定取り消しとなった佐々木は同級生でセフレの人妻、奈緒に瀬川を色仕掛けでハメようと持ち掛ける。だが、奈緒にもともと大学で世話になった瀬川に好意的でハメる気などなく、芥川賞を受賞した作品の官能的な項に興奮と共鳴をおぼえる。

 瀬川は奈緒のことをよく質問をくれる目立った学生として覚えていた。年齢とは関係なしに。奈緒が小説の官能的な項を朗読しはじめる。奈緒は性的な誘惑に弱い自分を瀬川に告白する。だが、瀬川はそれを肯定する。人より性欲が強い、自制心が弱い、そうかもしれないけれど、それがいい、あなたは強いと。以下、台詞は覚え書き+ニュアンス。

 

瀬川:言語化以前の未決定にとどまっているところがいい、だれにバカにされてもあなたは自分の価値を抱きしめなければならない、それをひとりで抱えるのは難しいけれど、耐えて、いつか励まし合える仲間に出会えるから。

 

奈緒:でも、先生は社会から認められた存在です、芥川賞をとれたからそう言えるのでは?

 

瀬川:そうかもしれません、でもできれば賞をとる前にあなたとこういう話をしたかった。

 

奈緒:わたしももっと早く先生の小説を読んでいればよかった。

 

 言語(言語プログラム)とは社会のことだ(ラカン)。社会を生き抜くために強制的に外から与えられた型にすぎない。瀬川が言うように、奈緒は社会からずれた存在だ。日本では珍しく主婦として大学に通う、不倫している、等。だが、自分自身を社会から見てダメな存在だと知っている。だからどっちつかずの状態にいる。瀬川も社会からずれた存在だ。だから奈緒を肯定する。瀬川にとっては、自身が大学教授であることも芥川賞を受賞したこともどうでもいいだろう。瀬川の研究室の扉は常に外に向かって開かれている。社会的なものさしの外側で通じうる二人が、瀬川の芥川賞受賞という社会的ものさしをきっかけに再開するのがなんとも皮肉である。そしてそうした関係は社会によって簡単に崩壊させられうる。奈緒が録音をセガワならぬ大学事務のサガワに送ってしまったことによって、二人の関係は社会的に消去された。

社会的ものさしを度外視してつながれる者同士が社会的ものさしをきっかけにしなければ出会うことができないという問題、そうした関係は絶えず社会的な力によって簡単に壊れうること。そうしたモチーフを感じる。

5年後、偶然バスで佐々木と再会した奈緒はもう5年前のどっちつかずの奈緒ではない。いつか佐々木の編集で出版された瀬川の小説を自分が読むことに希望を見出す。奈緒はいずれ出会うであろう励まし合える存在のために自分の価値を抱きしめて生きていく。

映画『愛なのに』 現代における恋愛の問題点が凝縮されている

『愛なのに』 現代における恋愛のほぼすべての問題点が出尽くしている

 

叶わなくても多田浩司に告白し続ける矢野岬。

「多田さんにとっての私はたくさんいるかもしれないけど、」

「私にとっての多田さんは多田さんただひとりです。」

 

盲心的な恋をしたとき、相手が世界そのものに思えてくる。世界の他の何よりもその人が魅力的に見えるから。そのとき、その人は自分にとって、代えの利かないかけがえのない唯一ひとりの存在として立ち現れる。しかし、相手にとっての自分は代替可能な有象無象にすぎない。この非対称性が片思いの宿命である。

 

だからこそ、岬が浩司に対して怒るシーンがある。岬からクラスの男子に告白されたことを聞いて幸せになってほしいと言う浩司。

「幸せになってほしいじゃんか、それは」

「え?誰に?わたしに?」

「そうよ」

「え?なんで?」

「何でって、それは、だって、そうでしょ。みんな幸せになったほうがいいじゃんか」

「信じらんない」

「そんなこと好きな人から言われたらムカつきません?悲しくなりません?」

 

浩司にとって岬はみんなのうちの一人。岬の幸せは浩司にとって他人事。浩司の発言は自分を好いてくれる人に一番言ってはいけない言葉だ。

 

どうでもいい人には告白されて、フッても気まずくならない。どうでもよくないから気まずい。かつて浩司の告白をフッた一花は浩司を結婚式に気まずいから呼ばない。それを聞いた婚約相手の亮介は一花に嫉妬する。「おーい、めっちゃ意識してんじゃん」。

好きな人を振り向かせようとするとき、無関心が一番入ってはけないゾーンだとよく聞く。なんならその人に嫌われていたほうがまだマシだという。それはあながち間違いではない。[好き/嫌い]は言語的に両極端に位置するセットだ。ある人間を嫌いと意識すれば、自然と[好き/嫌い]の言語地平に引きずり込まれる。ある時、嫌いと思っていた人間を好きになることがありうる。だが、無関心ならそもそも[好き/嫌い]という言語コードの地平が現出しない。だからノーチャンス。好きの本当の反対は無関心と呼ばれるゆえんだ。

だが注意すべきは言語的に無関心だと意識した瞬間に今度は[関心/無関心]の地平に引きずり込まれることだ。だから自分に対して無関心だということさえわかっていない真の無関心こそ、振り向かせたい人を一番入れてはいけないゾーンだ。

さて、この物語の主人公は浩司でも岬でもなく、佐伯一花だ。一花が婚約相手である亮介の不倫をきっかけに、婚約相手以外の人間(浩司)と関係をもち、罪悪感に打ちひしがれると思いきや、享楽に目覚めて解放される。

 近代家父長制家族はモノガミー的なモラルを形成し、それを脅かす婚姻外的な性関係を反倫理的なものとして感覚させてきた(見田)。それは社会的なフィクションにすぎず、ある意味で抑圧である。だからこそ、反倫理性に享楽が宿る(ラカン)。

 反倫理性に抵触したとき、人は罪悪感に打ちひしがれるのではない。忘れていた享楽に目覚め、あるべき姿にもどる。モノガミー的モラルをノンフィクションだと社会に錯覚させられてきた一花は浩司と関係を持って以降、「だれにも言えない感情」が生まれてしまう。そして、ふたたび浩司とセックスする。「たまに会って、たまに寝たい」。これが自然なのかもしれない。

 こうした真理は一花を通じて浩司にも継承される。

「この真っ白な手紙を最後にすると矢野さんは言ったけれど、もしよかったら気が向いた時でいいので手紙を書いてくれませんか。結婚してください、と書かれた手紙を」。さきの一花が浩司にはなった台詞「たまに会って、たまに寝たい」と同じ構図だ。

 岬の両親が「気持ち悪い」と浩司を問い詰めに来たとき、「愛を否定するな!」と激昂し、父親を殴る。社会的常識という虚構で、愛を抑圧するなと。

 

 だが、この継承線の原点にいるのは他でもない、浩司の不倫相手である、ウェディングプランナー熊本美樹である。彼女は最初からすべてを知っている。感情的になるシーンは一つもなく、常に平常心を保っている。その証拠に目の前に不倫相手の婚約者(一花)がいるのに、まったく動揺することもなく卒なく仕事をこなす。風俗で働いた経験があることも重要な要素であろうが。

「結婚っていうのは、相手と自分のためじゃなくて、相手の家族と自分の家族のためにするものなんですよ。あとは生まれてくる子供たちのために」

 

そして、17歳の岬も、限りなく熊本美樹に近い存在だ。直接接触するシーンはまったくないが二人はきっと似ている。